第一二話:心的外傷(トラウマ)

 

 

四月二〇日、午後四時一二分。大学病院。磯部綾子の病室。

 

 全ては夢だったのだろうか?

 あれほど自暴自棄で意固地に凝り固まっていた己の心が嘘のように軽い。

 全てが嫌だったはずの自分が、静かな気持ちで病室に入った夕日の光に目を細めていることに信じられない。それほど心が安らかだった。

 

「気分はどう?」

 

 ベッドに寝たままの綾子に、イスに座ってリンゴの皮を剥いていた母が微笑みに頷く。

 

「うん。大分、良くなってきたと思うよ・・・・・・・・・」

 

 そう。と、微笑みと相槌をしてリンゴの皮剥きを再開した時だった。病室のドアが数回ノックされる。

誰だろう? 私へ見舞いに来る人なんて居るなんて。

 

「邪魔するぜ?」

 

 ドアを開き、現れたのは真紅と花束。太陽が真正面に存在するかのような重圧。そして、眼を離せない美貌の女性。その笑みは獰猛な肉食獣。自分を見るその眼は不敵。花よりも《華》のある女性なのに、存在感だけで心臓が締め付けられる。

 

「真神家序列一位――――」

 

声音で大気が震え・・・・・・・・・病室の空気が一気に熱する。サハラ砂漠のど真ん中に立たされたように汗が吹き出る。

 

「真神家三二代目当主、真神京香だ。顔を合わせるのは初めてだな?」

 

 高圧な視線がゆっくりと綾子の母親へ向けられる。

 

神城雅孝(しんじょうまさたか)の妻・・・・・・・・・じゃなかった。磯部家現当主、磯部都子」

 

「そうです」

 

 微笑みながら軽く挨拶を交わしている。だが、圧迫感が母親の身体から放射された。空気が物質的な重さを顕現し、その場の雰囲気はピリピリと張り詰めていく。

 

「しっかしよぉ? 自分の娘をほったらかしにして何してたんだ? 大変だったんだぞ?」

 

 奇襲のように微笑んだ。いきなり相好を崩して話を掛けてきた真紅の女性に、綾子は驚いて瞬きしてしまう。先程の威圧的で大型の肉食獣みたいな恐怖感を放射した人物とは思えぬほど、その表情の変化に綾子は戸惑った。

 

「一ヶ月ほど〈異界〉で彷徨ってました」

 

「一ヶ月も!?」

 

 ギョッとする京香はマジマジと都子を見て、綾子へと視線を勢い良く視線を移す。

 

「お前も中々親不孝者だな?」

 

 何を言われているのか理解できない綾子は、えっ? えっ? と、呟くだけである。全て夢だと、全てが幻だと思っていた彼女にはそれを飲み込めるだけの理解力は無い。

 

「なーるほど? お前? 霊視()えているのに見ないようにしてんな? いや解っていないな? 自分が? 自分という者が“何者か?”って問い掛けたことすら無いな?」

 

 ・・・・・・・・・何を言っているの?

 

「それとも・・・・・・・・・? 〈これ〉すら見えないのか?」

 

 言下、京香と名乗った真紅の女性の身体から陽炎が吹き出る。真紅のフレアが龍のように踊り、額がキリキリと熱していく。電動ドリルで額を穿つような幻痛に悲鳴を上げる寸前、真神京香の人差し指が綾子の額を優しく触れていた。

 

「落ち着け・・・・・・・・・ゆっくりとでいい。深呼吸だ。そうだ・・・・・・・・・それでいい」

 

 いつの間に近付いたのか、いつの間に触れているのか? それらの疑問が浮かんでくるが、京香の優しさと深みのある声に促されるまま呼吸をしていた。

 

「ゆっくりと・・・・・・・・・空気を肺に満たして・・・・・・・・・・・・そうだ。そのまま〈瞼〉をゆっくりと閉じて開け」

 

 逆らいがたい声音ではない。むしろ安心感が勝る声音に綾子は全身の力を抜き、言われるがまま、導かれるままに眼を閉じて意識の手綱を解放した。

 

 

 言霊に誘われるまま深い眠りに入る我が子を見ながら、磯部都子は安堵の吐息を吐いて京香へと見窺う。

 

「ありがとうございます。《調律》までしてくださり、感謝の言葉もありません」

 

 

 ――――《調律》・・・・・・・・・霊視、霊質、霊感という三つの素養があって初めて魔術師に分類される。そして、それら三つに対する認識力も不可欠でもある。何を見て、何を感じ、どのような性質の物かを受け入れることが出来ない者も、少なくは無い。そして、それらの人間は大抵精神異常者というレッテルを貼られて一生を終えていく。《他人に見えず、自分だけが見える》という孤独感が心を殺す。

 それを防ぐための作業を魔術師の間では《調律》と言う。同族感と安心感を与え、触れることで認識力の不足さを補い、精神の安定を図る。だが、文字にすればこれだけだが、高度な催眠能力と位階。さらに《調律》する側の手腕が全て。

 それらの両方を持ち合わせる高レベルの魔術師は、《被免達人》のみである。達人級の魔術師であっても、他者の心理に影響を与えることは都子には不可能でもあった。常人には記憶改竄は可能だとしても、同族であり、同じ〈結界師〉としての素養のある娘に《調律》を施そうにも、それを《攻撃》として受け止めた結果が、一ヶ月間〈異界〉に閉じ込められることとなってしまったのだ。

 

 

「いいさ。ついでだし」

 

 ニッコリと笑む京香に釣られ、都子も辛うじて微笑する。だが、我が子を他人に委ねた苦味の含む苦笑だ。

 

「まぁ〜今日来たのは言うまでもねぇと思うけど?」

 

 厳粛に頷く都子。

 

「はい。ベルフェゴールのことですね?」

 

「今、お前が持ってるのか?」

 

場合によっては、交戦の可能性がある言葉を事も無げに言う京香。現在の退魔七家は、七家が所持していたはずの《七つの大罪》を冠する〈魔王〉が不在である。その膠着状態が続く中、序列を覆さんと動こうとしているのはどこの退魔家も一緒である。今は副業の企業や資金集めに夢中ではあるが、それはあくまでも他の退魔家に対してのポーズであり、資金や組織力が低下した真神家を上回るための土台作りといっていい。

だが、都子は首を横に振り、力無く溜息を付く。

 

「娘の身体から離れはしたのですが、そこから行方知れずになりました」

 

「〈鬼門〉に戻ったのか?」

 

「違うと思います。鬼門に戻れば、神城家の霊脈に流れるはずですがその反応も皆無です」

 

 憎々しく舌打ちする京香は眼を細めて呟く。最悪の事態を冷静に判断する退魔師の表情で。

 

「〈使役〉されているかもな・・・・・・・・・」

 

「ですが、〈魔王使役権利〉を用いることが出来るのは〈傲慢の魔王〉だけでは? その資格を持っている退魔家は夜神家です。ここ数年、彼等の動向は大人しい。それに、鬼門街を恐れているのか退魔家関係者は一歩もこの街に入った気配もありません」

 

「うん? あぁ・・・・・・・・・旦那と一緒に昔、脅したからな」

 

 どのような脅しなのか、想像したくは無い。〈神をも殺す女王〉と呼ばれてはいるが、その女王を〈巫女〉として位置付けにする〈狼〉の脅迫に抗える暴挙に出ようとする者は、〈帝王〉と呼ばれし神宮院当主だけだ。〈帝王〉と〈女王〉。この両者の小競り合いだけで、天変地異すら引き起こす。両者の死闘を織る者は魔術師世界の住人だけであるが、竜巻や地震などの災害はそれら全てが両者の余波でしかないとは認知していない。

 

「まぁ、もし夜神家がチョッカイ掛けるなら〈灰〉すら残さねぇ・・・・・・・・・陽神家も一緒だ。存在していた事を悔いさせてやる・・・・・・・・・」

 

 氷点下の殺意を声音に乗せる太陽に都子は唾を呑み込む。異様に響く喉と、頬を伝う汗の触感。己が異界をいつでも構成できる術を練り上げながら、慎重に京香へ問う。

 

「では、夜神家ではないと言うなら?」

 

「他のヤツじゃないのか?」

 

 あっけらかんと答える京香に、都子は目を瞬いてしまう。「お前かもな?」と、呟き様に剛炎の魔術を叩き付けんとするほど、さきほどの殺意は本物だった。だが、その矛先はいきなり消えてなくなっている。

 

「あっ? もしかして? 「お前かぁぁ!?」とか、言って攻撃すると思ったのか?」

 

 心外とばかりに顔を歪める京香。

 

「おいおい? もしそうなら、病院ごと焼き払うって?」

 

 ケラケラ笑いながら言うが、冗句にしては最悪だった。敵に回せば、この人物ほど危険人物は居ないと痛感させられた。

 だが、笑いの衝動をピタリと収めて真剣な瞳に変わる京香は、静かに都子の目を見窺う。

 

「実際、退魔家が動くとしてもリスクがでかいぞ? 今じゃ〈聖堂〉の支部があり、〈連盟〉の中核の位置付けであるガートス家。おまけにそれら監視するお題目で【エージェント】も潜伏している。この三組織の眼を盗んで動こうとするなんて、私でもやらないね」

 

 だが――――と、付け足して言葉を続ける。

 

「個人での活動なら別だな。退魔の法を無視してこの地に足を踏み入れた魔術師なら別だ」

 

 それはいくら何でも可能性は低い。魔王の魂を行使するに値する位階は第六位以上。そして、さきほどの〈傲慢の魔王〉を行使する才覚の該当者はそれこそ夜神家しか考えられない。

 

「そして・・・・・・・・・その個人で動くにも資金と、情報源、そして人脈もいるな? じゃあ、スポンサーが付くとしたら・・・・・・・・・? どこのド阿呆を想像するよ? 磯部家当主?」

 

 能面のような表情で問われた都子も、同じく無表情へと変わっていく。否、人間性の仮面を外した〈魔人〉と言うべき豹変。

 

「容易に想像できます」

 

「単純にな? まぁ、その可能性を言っておきたかったんだ。それじゃあ、私はこれで失礼するぜ?」

 

 花束を花瓶に入れ、最初と同じく不敵な笑みを浮かべて病室から去ろうとした京香を呼び止める。病室出入り口まで見送ると言うと、女王と畏敬の念で呼ばれし女性は擽ったそうな微笑をし、断る事も出来ず、一緒にエレベーターへと乗り込んだ。

 駆動音とエレベーター特有の体感の後、都子は横に並ぶ京香へ視線を向ける。

 

「先程の推測ですが? 対策は?」

 

「それ何だよぉ?」

 

 深々と溜息を付いた女王はいう。

 

「私さぁ? 今度パリでファッションショーだすんだよぉ〜? 三ヵ月後にぃ〜! しかも、仕事山積み! 私じゃなきゃ死ぬって! ホントマジで!」

 

 いきなりの愚痴。そして、己の現状を知らせる女王。早口の返答に驚く都子だが、大体の流れは掴んだ。

 

――――つまり、誰か代わりにこの街を監視する人間が必要だと暗に含ませている。《神殺し》の如月夫婦は確かに熟練した魔術師であるが、情報戦とからめ手には抵抗し難い。そもそも前衛戦闘型で足を止めた殴り合いなら頂点を君臨するが、結界師や遠距離戦に強い魔術師が後方に居なければ信じがたいほど脆い。その後衛に適した魔術師真神京香は忙しい。そこで私に白羽の矢を立てた――――。

 

「まぁ〜何とか間に合わせてはいるんだけどぉ〜さぁ・・・・・・・・・ホント睡眠時間が削れてく、削れてく・・・・・・・・・美容に悪いだろうがぁ!!」

 

 一人で愚痴り、一人で怒り始める京香はまだ止まらない。

 

「しかもぉ!! 私が居ない間にテーゼは面白い事件追いかけているし! ガウィナは昇太郎の《一桁ランク、おめでとうパーティー》に誘うし! 長老はあんな自給自足の島でネット環境充実させるし! 何時の間にかアヤメのヤツはホームページ開くし! 誠は私の身長追い越すし! 美殊は和食なら私とタメ張るくらいに腕上げたし! スクーピィーのヤツは「日本のトップブリーダーが推奨するドッグフードを土産に頼む。何? 代金はこちらで払うさ?」って私をパシリにするし! もぉぉぉぉぉぉう! 私の身体は一つしかねぇっうのぉ!! 楽しのは良いけど忙し過ぎる!!」

 

 色々関係の無い愚痴が飛び交うが、その中で都子が愕然とする項目は多々あった。

 テーゼは反対命題(アンチ・テーゼ)であろう。《最弱》でありながら、《強者》と渡り合い、その《強者》を屠る《最弱の屍人》にして墓場の巫女たる痴呆の女神、ナターシャ・ブラッドリーの忠実なる部下。その姿を見たものは死神の宣告よりも正確に死んでいくと、不気味さと噂が跋扈する人物。その人物とのコンタクトできる女王真神京香に恐る恐る口を開いた。

 

「あの・・・・・・・・・反対命題とはどのような関係なのです?」

 

「うん? 私の祖父(・・・・・)ちゃんらしい」

 

 《最強》のルートは《最弱》・・・・・・・・・・・・? 筋は通っているような・・・・・・・・・。

 

「えっ・・・・・・・・・・・・?」

 

「いやさぁ〜? 昨日、娘の訓練ついでに〈地下室〉の清掃とかしていたら、偶然にも大叔母様の日記を見つけたんだよぉ? そしたら! 何と! 私は赤ん坊の頃に養女として当時、当主だった親父に引き取られていたんだって! もぉぉぉぉう! すっげぇ! てっ、位にまぁ〜書いてある、書いてある新事実の数々! 写真も出て来たよ♪ 衝撃的なのはもう、バッキィバッキの恋する乙女チックな文章♪ 文章♪ 超恥ずかしいよ♪ 大叔母様!」

 

 物凄く嫌らしい・・・・・・・・・まるで中年オヤジがエロ話に花を咲かせる時にしか浮かべない笑みだ。それだけで内容は容易に想像出来る。さそがし・・・・・・・・・エロいか、純愛日記だったことだろう。

 

「もう〜恋愛小説と官能小説の融合(ハイ・ブリット)だね? あれは? 読んでて恥ずかしくなちゃったよぉ! だけど、嬉しいのはここだけじゃねぇ! 私はFUCK正輝(まさき)血が繋がっていない(・・・・・・・・・・・)ことだ! もぉぉぉぉーう! 嬉しくて、嬉しくて! この嬉しさを表現できるのはハグしかねぇ! つぅかー抱締めさせろ!」

 

 上機嫌に両手を広げて滲みよって来る京香に、都子は乾いた笑みを零して首を横に振って断った。

 そして、冷静に頭の片隅で整理する。少なくとも、この真神京香は人外のクォーター。しかも、不老不死に特化した〈セメタリー〉のクォーターである。三分の一は人外の領域に身を浸し、残りの三分の二は被免達人(アデプタス・エクスエンプタス)に位置付けする者・・・・・・・・・これは反則以外の何者でもない。

凡百の魔術師を並べた中で、この真神京香が〈女王〉と呼ばれるのは、誇張ですらない。正しく全てを生まれ持ったときから持っている。

 

「絶対にテーゼのヤツに言ってやろうぉ〜? どんな顔するかな? アイツ? 私が「アンタの孫だよ?」、何て言ったら腰抜かすかな? それとも感動の余り泣いちゃうかな? 泣いちゃうかな♪ どう思う? こんな絶世で妖艶絶頂美女が孫だと、どんな顔するかな?」

 

「さぁ・・・・・・・・・?」

 

 反対命題が噂どおりの人物なら・・・・・・・・・〈絶対否定〉の忌み名を持った男なら、それすら否定するだろう。だが、血の繋がりにだけは否定し難い。そして、否定するには余りにも誘惑が強すぎるであろう。

人外と人間の間に生まれた《混血者(ハーフ)》は、四〇億分の一の確率と《連盟》のスクーピー・ドゥという魔術師が論文で発表していると、都子は聞いたことがあった。その確率を当て抜こうとするには幾千の魔術儀式が必要不可欠であり、それすら《偶然》に頼る。

 しかし、この女王を前にしても噂通りの彼(・・・・・・・・・)なら否定してしまうという予感を飲み込んで、都子は話の流れを方向転換することに決めた。話の流れがどんどん逸れていき、このままではただの長話で終わる予感があった。

 

「話を戻しましょう・・・・・・・・・あなたは確かに群を抜く素晴らしい魔術師です。ですが、あなたの不在では〈黒天使〉も〈不死身鳥〉も、実力を発揮できない事に懸念しているのでしょう?」

 

「うん」

 

 こっちがマジメに話しているのがバカらしくなるほどの、マジメで率直さと素直さで頷く。

 溜息を何とか呑み込んで都子は続ける。

 

「そして、磯部家・・・・・・・・・それも結界師の中でも《異界》に長けた私が如月夫婦の後衛を務めれば、あなたは安心できると言いたいのでしょう?」

 

 少々の皮肉。そして、自負と挑戦的な眼差し。当の京香は目を瞬いていた。きっと、この言葉を言わせたいから先程の愚痴と、自分を含めた誰も知らない新鮮な情報をタダで受け渡したのだろう。処世術としてはある種の博打だが、読み難いという点ではこの女王は油断できない。このセリフを言うということは、半ば承諾し、理解していると解答しているのだ。

 

「もしかして・・・・・・・・・やってくれるの!?」

 

 驚きと喜びを隠そうともしない満面な笑みが京香の顔に広がっていく。

 

(えぇぇぇー!?)

 

 今度は郁子が完全に驚いていた。完全に予想外だった。まさか、さきほどの会話全てが天然(・・・・・)で進めていたとは考え難いことだった。

 

「本当? マジで? そうなると本当、嬉しいよー! 駿一郎とアヤメの負担どころか、結界師がバックに付くのはホント、頼もしい限りだよ!」

 

 ありがとう、ありがとう! と、何度も礼を言いながら都子の両手を握って振り回し、今度は強烈な抱擁でギュウギュウにされる。欧州の国ではスキンシップは濃厚だと聞いたことはあるが、こんなに濃厚なら私は絶対に海外旅行など行かないと都子は心中で呟きながら、何とか呼吸確保のために首を動かす。

 

「あっ・・・・・・・・・あの? まだ了承したわけでは・・・・・・・・・」

 

 何とか首だけは自由になり、抱きつかれながらも言う。さきほど力が嘘のようになくなり、ゆっくりと解放して都子の顔をじぃっ〜と、見詰める。

 

(何ですか・・・・・・・・・? その心底残念そうな顔は・・・・・・・・・? 欲しい玩具を買ってくれないときに見せる子供の表情というのか・・・・・・・・・雨の中でポツンとダンボール箱で捨てられた子犬の円らな瞳というのか・・・・・・・・・)

 

魔術世界最強と謳われし真神京香の噂は伝説だが、噂と実物では天地の差すらあった。子供をそのまま大きくしたような人物と気付くのに、時間は掛からなかった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 真正面から覗き込む視線は、無言で圧力。それも殺気や闘気とは違い、本気で頼み込もうとしている眼差しである。ある種、真摯さすらある。無駄に高いプライドと矜持のある元夫と、その他の退魔師しか知らない都子には新鮮でもあったが、未知なる人種に戸惑いが隠せない。

 騙し合いと主導権の強奪と奪還。それが会話の根本だと思っていた都子。だが、目の前にいる真神京香はその根本から大きく逸れていた。

 

「あの・・・・・・・・・普通、序列一位の権限で命令すればいいのでは?」

 

 そう――――磯部家は退魔師の枠に入らない。末端の分家である。本家の命令なら分家は動かなければならない。それが例え、汚い事だとしても。だが、京香は首を傾げていた。心底、何を言っているのかという顔だ。

 

「あなたは退魔家序列一位です。そのあなたの命令なら誰だって従う。私になど頼み込まず、他の者に命令すれば良いじゃないですか?」

 

「あぁ〜それか〜」言いながら紅い髪を手で払い、

 

「私が一番嫌いなのは《命令》なんだ」

 

 真神 誠が聴けば「どの口でほざく!」と、激昂すること必至のセリフ。

 

「説得力ないかもしれないけどよぉ?」

 

 そして、本人も充分理解していた。

 

「気に入った人間に頼み込むのも、頼まれるのも私は大好きなんだ。そして、気に入らない人間に命令するのも、気に喰わないヤツに命令されるのもすげぇ嫌いさ・・・・・・・・・」

 

 京香の声音は徐々に先程の元気が何処に行ったのかと思うほど、かすれて弱々しくなる。

 

「そして大好きで、大好きで、仕方がないヤツに命令したり、束縛しなくちゃいけなくて、どうしようもないほど選択肢が無い時は仕方ないけど・・・・・・・・・死ぬほど嫌だ。無力で弱いって、心底気付かされる。自分が母親なのに・・・・・・・・・そいつの顔をまともに見られないほど・・・・・・・・・消えてしまいたいほどに・・・・・・・・・嫌だ。だから、何度も同じことをしたくはない」

 

 重々しい声音で言う京香のセリフは、都子の胸にも突き刺さる。そして、少なからず共感も。

 都子も自分の娘が結界師としての素養があり、それに目を付けた元夫は英才的に結界師として育てた。望んでいた事でもなく、ましてやどのような意味があるかも本人は知らず、理解出来ず、そしてこれが《普通》だと受け入れてしまう前に止められなかった。

 

「だから、頼むよ。郁子さん? あんたの結界師としての力、私に貸してくれ。あんたがいれば助かるし、息子と娘も安心してこの街に住める。もし、何かあったら私はすぐにあんたの力になるよ。私が出来る事なら、何だって、喜んでする」

 

 女王が深々と頭を下げていた。神殺しの女王、白銀の獅子、退魔師序列一位の真神家当主が分家筋である者に向かって頭を下げていた。男勝りで断定口調でありながら、女性の美を体現している人物。だが、それ以前に《女性》であり、《ただの母親》だった。

そして同じ母である都子に礼儀を尽くしていた。

 

「頼む」

 

 頭を下げたまま言い続ける京香に都子は耐えられなかった。堪えたとも言える。そして、いくら《最強》でも自分と同じ母親であることを、痛々しいまでに思い知らされた。

 

「頭を上げてください・・・・・・・・・そして、私からもお願いします。私の娘、綾子をここに住ませてもよろしいですか? 私の娘は何も知らずとはいえ、あなたや、あなたの友人、あなたの息子さんや娘さんにも多大な迷惑を掛けてしまいました。本当は私が頭を下げるべきです。ですから、頭を上げてください。この通りです」

 

 今度は都子が頭を下げ初め、京香が狼狽してしまう。

 

「イヤイヤ!? ちょっと? 頭を上げてくれよぉ! 私はこういうの苦手なんだからさ? ねぇ? それにしょうがねぇじゃん? 位階としての段階は昇っているのに、その位階自体を認知していない状態だろ? ねぇ?」

 

 手振り身振りで頭を上げてくれとジェスチャーする頃、エレベーターの扉が開いた。しかも、エレベーター待ちの人間とばったり出くわすタイミングの悪さ。

 白い目が三組。三人とも寝巻姿で入院患者であろう。その目を誤魔化すために京香は顔を紅くしながら、都子の手を引っ張ってエレベーターから出る。色々な憶測を思い浮かべているだろう興味深げな視線がエレベーターの扉が遮ってから、京香は大きく呼吸を再開した。

 

「嫌なトコ見られたなぁ。きっとエレベーターの中で私とあんたの話で盛り上がっているぞ・・・・・・・・・」

 

「そうかもしれませんね・・・・・・・・・」

 

 互いに場をわきまえなかった愚に反省をしつつ、京香と都子は病院から出た。

 空は夕日のオレンジに染まる。橙色が空を覆い、太陽が隠れる頃には街の街灯とイルミネーションという化粧をすることであろう。その夕日に目を細めながら京香は「早速だけど」と、前置きして携帯電話を取り出した。

 

「都子さん? 雅孝に電話するけど? いい?」

 

 はぁーと、曖昧に承諾すると電話番号を押していき、四秒ほどの間を置いて京香は携帯電話に向かって口を開いた。

 

「てめぇらの社長を出せ。真神京香と言えば判る」

 

 電波を通して殺気を叩き込んだ。仕事場に直接電話を掛けたのだろう。受け取ったのは秘書か、受け付けに同情を禁じえないほど迫力を孕んだ声音だった。

 

「よぉう。雅孝? 元気にしてたか・・・・・・・・・うるせぇ、世辞はいい。単刀直入。文字通りにぶった斬る勢いで言うから、耳の穴かっぽじって聞きやがれ」

 

 業火煮え滾る殺気と共に、目を細める京香。見えない相手を想像しているのか、虚空を睨みつけて呟く。

 

「都子さんは私のマブダチだ。そして、綾子ちゃんを便所のカビより汚ねぇ弁護士を雇って取り返すような真似し腐りやがったら、《灰》すら残さねぇ・・・・・・・・・判ったな? 理解出来たか? 真神の名と、我が夫である真神仁の名に誓って、だ。私の夫の名前まで出したからには、《灰燼》だって許さ()ぇ――――――――へぇー興味無い? 他の跡取候補がいるから? へぇー本当、退魔家でまともなのはある意味、神宮院だけか? 私の《敵》にすらなれない、私にチョッカイすらかけないとはな・・・・・・・・・解ったよ。じゃあな? 引き篭もり。精々、頑張りな。その他の跡取候補が〈奴等〉に狙われることがないよう、祈っててやるよ?」

 

 有無言わさず携帯電話を切った。その上電源までオフにする。

 

「これで少しは安心だろ?」

 

 悪戯好きな子供のような笑みを向けられ、都子は小さく笑う。

 

「ええ。あなたに脅されて歯向かえるのは、神宮院家だけですから」

 

「まぁな。斑は過激だが、あれでも紳士だ。双子の紅ちゃんと蓮ちゃんは、私に堂々と二人掛かりで挑戦してくる。私は好きだな。ああいう気合の入って骨のある奴ら」

 

「ですが、良いのですか? 〈塩を贈る〉ような真似をして?」

 

「いいさ。どうせ、クソッタレ共がハッちゃけたらイヤでも〈ツルむ〉ことになるさ。今の内に心の準備はしてくれないと後々こっちが困る」

 

 不敵な笑みを浮かべる京香に、都子は厳粛に頷いた。今はただの小休憩だ。その小休憩が終わる頃、波乱と陰謀の竜巻がこの街を襲うであろう。

 

 

 

 京香と都子がエレベーターに乗った直後。

 

 エレベーターから出て、真っ直ぐに病室へと向かう。霊児さんは大きなドラムバックを肩に下げ、いつものレザージャケットとレザーパンツのファッション。

おれもいつもどおり白の長袖、黒のジーパン。さすがに母ちゃんがプレゼントしてくれた服を、日常的には着られない。てか、度胸がないね。うん。美殊はメチャクチャ勧めるけど、やっぱおれは白と黒の色合いが一番好きだから、これが一番落ち着く。

マジョ子さんはド派手な外国ヘビーメタルバンドのパーカーに、ロングスカート。そしていつもの三角帽子の姿。だが、そのマジョ子さんの表情は晴れない。むしろ、不機嫌だった。

 

「じゃ、頼むぞ? マジョ子? ベルフェゴールの手掛かりになりそうな情報は少しでも欲しい」

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 霊児さんはマジョ子さんを見て言うが、視線すら合わせず無言のまま。大学病院に着く前から不機嫌さを隠しもせずに、ジト眼で霊児さんを見る始末。おれはその痛い空気に触れているだけだけど、息苦しい。

 鈍感すぎるくらい鈍感なおれでも、霊児さんはきっとマジョ子さんの機嫌を損ねてしまうような事をしてしまったのだろう。う〜ん、しかし、霊児さんのような気配りの行き届く人がやらかした失敗って、想像も出来ない。

 

「あのぉーマジョ子さん? 機嫌直してくれよ? オレも反省しているから。この埋め合わせは必ずするから。ねぇ?」

 

 とうとう霊児さんはさん付けでマジョ子さんを呼ぶ。

 

「・・・・・・・・・・・・貸し、二」

 

 マジョ子さんは霊児さんにだけ(・・・・)見せる敬語と敬意的な態度も無く、素っ気無い口調。

マジョ子さんは本気で怒っていた。フランス人形に不敵な笑みを見せる姐さんだけに、大らかな人だと認識していたおれだけど・・・・・・・・・これは相当怒っている。触らぬ神にタタリなしとも言うが、助け舟も出せないのがおれの現状です。

 

「そのぉ〜マジョ子さん。いや、マジョ子様? 機嫌直してくださいませ」

 

 今度は様付けか・・・・・・・・・この人、本当にオカ研部の部長なんだろうか?

 

「別に・・・・・・・・・聞き出すこと事態当然です。異論はありません。それより? ガートス家にカシを作るということはどう言うことか、解っているんでしょうね?」

 

 ガートス家が大富豪ではなく、マフィアに聞えてしまうのは何故だろう?

 

「解っております。マジョ子様。いや、マジョ子閣下」

 

 とうとう国を代表する大人物へと昇格していくマジョ子さん。そのおかげか解らないが、機嫌が戻ったようだ。そして、小首を傾げながらおれへと視線を向けるマジョ子さん。

 

「でぇ? なんで美殊のヤツは来なかったんだ? 学校にも来てなかったよな?」

 

 おれに話を振るので、おれは頷いて返答する。

 

「美殊は昨日の晩、母ちゃんと訓練していて。その疲労がまだ抜けきれていないから置いて来ましたよ・・・・・・・・・」

 

 昨晩、自分の家に《地下室》があった事実に驚いた事と、そして美殊と母ちゃんの訓練を見学していた風景が脳裡に蘇る。

 

「京香さんも師弟関係には厳しい方なのか? マコっちゃん?」

 

 霊児さんの疑問に、おれは力無く首を横に振ったことだろう。溜息を吐き出しながら、

 

「母ちゃんより、美殊が厳しいというのか・・・・・・・・・もう母ちゃんが「もう、止めない?」って何度も言うんですけど、美殊は「もう一丁来い!」ってヘロヘロなのに言うんです。地下室の床を這いつくばっているのに、それでも訓練を続けようとするんです」

 

 言い終えたおれは二人を見渡すと、渋い顔になっていた。想像したのか二人とも深い溜息を吐いていた。一度、二人に妹の印象を聞いてみたい。きっと、「無茶するタイプ」と、声を揃えて言う事だろう。

 

「無茶するな」

 

 霊児さんは呆れ半分の顔で半ば予想通りに言い、マジョ子さんも同意して頷く。

 

「オーバーワークは無意味だ。今度からちゃんと見張っておけ」

 

 言われ、見張った結果が「今日なんです」と、口には出さず呟くと、

 

「マジョ子陛下の命令だと伝えておけ」

 

 なんだろう。凄まじいまでの説得力のあるお言葉。そして、再びおれと霊児さんを先頭にノシノシと、大股で病院廊下を闊歩する三角帽子のフランス人形。

 

「あのぉ? 巳堂さん? 良いですか? 何か仕切ってますよ?」

 

 一応は「あなた、部長ですよ?」と、暗に含むセリフに霊児さんは重々承知しているのか、暗いお困りの表情で頷いた。

 

「仕方が無いよ。オカ研部はマジョ子女王陛下に支えられているようなものだし。オレには見えるよ――――マジョ子教祖様の手から伸びるリードが二本、オレ達の首に繋がっているのが・・・・・・・・・マジョ子教祖様無しでは、我々は生きていけないよ・・・・・・・・・」

 

 とうとう訳の解らない女王様から新興宗教の教祖へと、シフトを繰り返していくマジョ子さん。てか、おれも首輪で繋がれているのか!?

 

「さて、着いたな・・・・・・・・・」

 

 病室、磯部綾子と書かれた個室の前に立ったマジョ子さん。ノックもせずにいきなりドアを開けながら、懐から紐で吊るした五円玉を取り出す。おれが病室まで二人に付き合ったのは《これ》を見るため。だって五円玉で催眠術に掛かっちゃう人間なんて、間抜けすぎる。そして、そんな間抜け仲間は一人でも多く欲しい。笑わないけど、慰める代わりに慰めてもらうという打算的行動の結果だ。

 ここまで自分を鑑みて情け無くなってきた。自問自答の果て自虐しているおれをよそにマジョ子さんに続いて、霊児さんも入っていく。

 気付くと、おれを怪訝と不審な目が集まり始めていく。他の入院患者がチラチラ見始める始末だ。看護士が来る前にさっさとおれも病室に入ることにする。

 病室はアルコールの独特な匂いに、西日のオレンジが淡く染め上げている。窓際のベッドで眠っていた患者、磯部綾子さんはおれがドアを閉めた音に気付いたのか、寝ぼけ眼を擦りながらベッドから上体を起こしてしまう。

 おれは慌てふためき、隠れる場所を探す。いきなり起き上がったため、かなりペッピリ腰。

 起きたばかりのぼやけた頭で、病室に入った侵入者である巳堂さんとマジョ子さんを見て小さく悲鳴を上げそうになる瞬間、マジョ子さんは出鼻を挫くように呟く。

 

「全部夢だとでも思ったか? 都合が良すぎるぜ?」

 

「あなた達は・・・・・・・・・確か・・・・・・・・・?」

 

「説明は後だ。とりあえず・・・・・・・・・全部吐いてもらう」

 

 有無言わさず五円玉を左右に揺らし始めるマジョ子さん。これで安心だろう。催眠術さえ掛かってしまえばどうにでもなる・・・・・・・・・と、高を括っていたおれは安堵して呼吸を再開したが、場の空気が知らない内に冷たくなっていた。

 あれ? と、おれは視線を霊児さん、マジョ子さんへ向ける。二人ともおれを見ていた。訳が解らないといった表情だった。さらに怪訝となるがすぐに気付いた。視線がもう一つある。その視線を辿ると、呆然とおれの顔を凝視している磯部さんと眼があった。視線は五円玉など見ず、ただおれをじーっと見ている。

 

「あっ・・・・・・・・・どうも」

 

 ずっと見詰められていて身の置き場に困るおれは、軽くあいさつしてみる。

 

「あっ・・・・・・・・・・・・あぁぁ・・・・・・・・・」

 

 徐々に、そして見る見ると磯部さんの身体が震え始める。

 

「あっ・・・・・・・・・あのぉ?」

 

「はっ、はっ、ひぃ、ぃぃぃ・・・・・・・・・」

 

 返事なのだろうか? それともハヒフヘホ? いや、それよりこの人大丈夫か? 震え出して左手親指の爪をガリガリ噛み始める。右手は長い黒髪を引き千切るばかりに握り締めているよ。ちょっと、怖い。けど、

 

「大丈夫ですか?」

 

 勇気を振り絞ったおれの言葉の何がいけなかったのか――――いきなり磯部さんはベッドの上に立ち上がる。

 

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいっぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃい!」

 

 磯部さんの奇声にさすがのマジョ子さんも、霊児さんすら大きく後退りしてしまう。そして、止めるとか、驚くとかの刹那すら無意味と思えるほど早く、磯部さんは窓ガラスをブチ破り飛び降りてしまった!

 

 

 

 病院駐車場にて。

 

「車があるので、送りますか?」

 

「ホント? 何から何までホント、ありがとう」

 

 駐車場には生まれたばかりの赤ん坊を抱いた、若い夫婦連れが真神京香へ眼を向ける。その瞬間には、まるで杭に打たれたように動かなくなる。

 類稀な美貌で、都子の提案に快活良く頷く京香の姿はある種、ギャップがあり過ぎる。存在感を立体的な黄金律で構成したような美貌の主が、童女のように笑うのだ。

その京香の微笑みと嬉しそうな表情に、都子は苦笑してしまう。先程のセリフをそのまま返したいし、何より彼女の微笑はこちらの気持ちすら和やかにする。そのお礼もしたい。そんな複雑なのに悪くはない、くすぐったい気持ちを隠しながら。

 カローラの前で運転席まであと五歩という距離だ。

その瞬間だった。

 カローラのトップが何か重いものが降ってきた。寝巻姿の少女が背中を強かな衝撃音を響かせ、トップを半壊し、フロントガラスが夕日を照らしながら舞い上がる。

 駐車場にいた若い夫婦も度肝を抜かれて呆然となり、赤ん坊がその騒音に癇癪を起こして泣き叫ぶ。

 防犯のために取り付けられていたアラーム音が響く中、荒事に慣れていたはずの京香と郁子すら呆然とその光景に目を奪われていた。半壊したカローラの屋根で芋虫のように蠢く少女が、綾子だと気付くのに二人が有した時間は三秒。そして、その三秒後には右肩と左肘が外れ、痙攣しながらも幽鬼の如く立ち上がる。額は薄く切っていて顔の左側面をゆっくりとどす黒く染めていく。

 

「びぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 奇声、悲鳴、絶叫が夕日に染まる病院駐車場に轟いた。

 母親である都子すら目もくれず駐車場を裸足で走り出し、一目散に逃げていく。

 その後姿をどれだけ眺めていた事だろう。京香は、首をゆっくりと都子へと向ける。都子は口を手で抑え、嗚咽を堪えていた。

 

「綾子・・・・・・・・・また投身自殺なの・・・・・・・・・・?」

 

 悲壮な声音で泣き崩れ、駐車場のコンクリートに涙が落ちた。だが、客観的に物事を見ていた京香は首を横に振って、

 

「いや・・・・・・・・・あれは何かから逃げようとしていただけだと思うよ?」

 

 言いながらチラリと駐車場から四階の窓ガラスがブチ破られた病室へと眼を向けた。何故か勢い良く隠れる三人が見えた。それも見慣れている連中。首を傾げたが、さすがにそれは憶測だと溜息を吐いて肩を竦めた。

 

 

 

 磯部綾子の病室内。

 

 不味いよ、何が不味いって下に母ちゃんの姿があった。そして、おれ・・・・・・・・・投身自殺を目撃した人間だよ。しかも、生!? ショッキングだよ!? どうしよう? どうすれば!

 

「マジョ子?」

 

「イエッサー、霊児さん」

 

 驚き、慌て、どうすればいいのかとおれは縦横を行ったり来たり。途中、皮の剥かれたリンゴに目が行き、ここは一つリンゴでも食べて落ち着こう。落ち着きという現実逃避はとても大切と決断し、リンゴに手を伸ばそうとした時だった。いきなりすごい力で腕の進行は止められた。自分の腕を掴む、小さくて小学生のような手を辿るとマジョ子さんの手だった。

 マジョ子さんはいつの間にか、霊児さんが持ってきたバックを肩に担いでいる。

 

「おい? ベッドの下に隠れるぞ」

 

「まずは逃げましょうよ!?」

 

「声を出すな。さっさと言う事を聞け」

 

 ズルズルと引き摺られてしまう・・・・・・・・・前々から思っていたけど、マジョ子さんってウチの母ちゃんと似てないか? 細い身体で信じられない腕力におれは驚きとマジョ子さんにとても失礼な感想を脳裡で浮かべたが、おれはベッドの下の隙間へと押し込められた。

 

「でも、霊児さんは?」

 

 このスペースだとマジョ子さんとおれ。そしてバックで一杯だ。

 

「おれはここで良いよ」と、軽い口調で身体がフワリと跳躍。まるで羽毛のような柔らかさで天井へ。背は天井に貼り付け、靴裏はドアの真上に。どんな原理なんだ!? 指で引っ掛ける隙間もない天井だよ!? てか、天井を水平にして立つってなに!?

 

「キモ!? すごいけどキモ!? すごキモ!」

 

「黙れ」

 

 隣でおれと同じくベッドに身を隠していたマジョ子さんに口を手で抑えられた。そして何気に――――――――見えないけど首筋に何だか冷たい金属の感触がある・・・・・・・・・まさか? これ以上騒がしい真似をしたらおれを黙らせると? 永久に?

 

「そろそろこの騒ぎに警備員が来る。シーツを上手くベッドの下へ伸ばせ」

 

 命令されて実行するおれ。しかも未だに首筋には冷たい感触。ダメだ。やっぱ母ちゃんと同類かもしれない。否、同種か?

 

「よし。後は息を殺せ。呼吸を止めろ」

 

 素直に頷き、自分の手で口を抑える。その頃にはドタバタと駆け足でこちらに向かってくる足音が二人分響く。そしてドアが勢い良く開けられた。

 

「クソ! またか! 病室に押し入って病院患者を投げ捨てるということは、《やつ等か》!?」

 

「推測材料が少ない。それより、もしそうなら逃げたかもしれない。早く出入り口を封鎖しよう」

 

「あぁ! 今回こそ捕まえてやる!」

 

 二人の警備員は早速行動を移し、入る時と同じく病室のドアが壊れるほど閉めてから出て行った。話を聞いていたおれはチラリと横にいたマジョ子さんを見ると、手には黒光りする銃把が握られていた・・・・・・・・・処理する気だったんだ、この人。でも、警戒を解いてその銃把を懐にしまった。呼吸再開は安堵の溜息が零れ出た。

 

「出るぞ」

 

 迅速にベッドから出るマジョ子さんに短く言われ、おれはのろのろとベッドの下から這い出る頃には霊児さんは天井からヒラリと着地する。無音、無風の着地をまるで普通にしている時点で、この人の底無し加減におれは愕然とする暇すらなく、マジョ子さんは小さく舌打ちした。

 

「以外に早く警備員の到着が早かったですね?」

 

「そうだな。散々やったからマニュアルでもあるんじゃないのか?」

 

 短い感想のセリフにおれは背筋に寒いものを感じてしまう。警備員は言っていた。「またか!」、「《やつ等》」・・・・・・・・・「散々やった」という材料で推測は急激に悪い方向へ・・・・・・・・・つまりこの病院では入院患者が自分の病室から飛び降りるらしい。それも・・・・・・・・・この仮説が外れて欲しいけど・・・・・・・・・その犯人はおれの目の前にいる先輩達らしい。

 

「さて。きっと飛び降りの現場は野次馬で一杯だな?」

 

「警察も来るでしょう」

 

「仕方がないな。バックを」

 

「イエッサー」

 

 霊児さんに言われ、バックを持ったマジョ子さんは中を開けた。その中には電動ドリル、黒塗りのゴーグルが二個。映画でしか見たことのないピッキングツール、粘土と信管に配線類は・・・・・・・・・まさか? プラスチック爆弾か!? それに鋼色のパイナップルが二個!? クリーニングのビニールに包まれた何着かの衣類、靴はシューズとラバーソールの二足。その中の衣類の一着を霊児さんに渡し、今度はおれに投げ渡すマジョ子さん。受け取った服は赤のベスト。

 

「着ろ。簡単な変装くらいしておけ」

 

「オレのサイズだから大丈夫だと思うよ?」

 

 しかも、霊児さん持参らしい。この人も何気に危険人物だ・・・・・・・・・って!? おれの言いたいことはそれじゃないし、二人はおれが一番欲しい返答をしてくれない!?

 口を開いたり閉じたりを繰り返し、何か言おうと懸命に思考する。しかし、言葉を紡ぐ前に霊児さんとマジョ子さんは速やかに行動する。

 霊児さんは素早くレザージャケットからジーンズジャケットに着替え、靴もシューズに履き替える。マジョ子さんは三角帽子と、霊児さんが着ていたレザージャケットとレザーブーツ、さらにビニールもドラムバックに詰め込み、ニット帽に長い金髪を押し込む。

おれも習ってベストを着たのを合図にし、霊児さんは頷いてドアを開けた。何気にハンカチでドアノブを掴んでいる。指紋を残さない所を見ると、相当な用意をしてきたらしい。

病室の廊下へ出ると、三人の入院患者が待ち構えていた。三人とも六〇代のおじいちゃん。案の定、廊下には野次馬がいた。あぁ〜これでおれは警察で事情を聞かれ、臭い飯を食わなきゃいけない人種になるのか・・・・・・・・・と、思っていたが、そんな絶望的なおれの胸中などどうでも良いかの如く、霊児さんは疾風のような手刀を首筋に閃かせた。

叩き込まれ、黒目がグルンと白目に変わって崩れ落ちる。倒れて物音を立てないため、サポートに回っていたマジョ子さんは素早く三人を抱きとめ、病室に運び、壁に背を預けさせる。

 

「やっぱ元気のいい入院患者は駐車場に行ったみたいだな」

 

「ええ。寝たきりの老人が多くて助かりますね」

 

 素早い処理におれは眼を奪われた・・・・・・・・・何て思うか! 老人に手刀を叩き込んだ霊児さんは、素知らぬ顔でマジョ子さんに手を伸ばすと、マジョ子さんは頷いて鋼色のパイナップルとゴーグルを手渡した。

 

「ちょっ――――」

 

 止める暇も無くピンを抜く霊児さん。そして片手でゴーグルを装着。そのままエレベーター付近へ投げた。その近くにはナースステーション。そして今度はいきなり背後から目を手で押さえ付けられる。小さな手の感触にマジョ子さんだと推測するのも束の間だった。押さえ付けられた暗闇すら刺し貫くような閃光を瞼裏で感じたおれは小さく唸った。

 

「なっ・・・・・・・・・何が?」

 

「え? 知らない? 閃光手榴弾?」

 

 シラネェよ! そんなの!?

 そしてナースの皆様の悲鳴と絶叫。身を縮めて恐怖に震えている隙に、エレベーターに滑り込む二人に、おれは付いて行く。

 マジョ子さんは素早くエレベーターの一階にボタンを押すと、エレベーターは騒音と悲鳴を遮るように閉じた。

 

「前回よりも対応は早いですが、大した騒動にしないで済みそうですね?」

 

 すでに発言が間違いすぎのマジョ子さん。

 

「そうだな? もう少し軽装のほうが良かったかもな」

 

 バックを片手に肩を竦める霊児さんですが――――アンタら!? 今のが騒動じゃないのか!?

 

「それより? マコっちゃん? さっきから挙動不審だぞ?」

 

「ヒヨッコだから仕方がないですよ。さっきの私たちの手際に驚いて、声も出ないって奴ですよ? それにさっきの閃光で眼を塞いであげましたが、誰でもあれにはビビりますからね?」

 

 ナニ! その世間話的な口調は!?

 

「とりあえずとんだ騒動になったから、マコっちゃんは家に戻っても良いよ?」

 

「そうだな。迎えを用意させてやるから、お前は私のメイドと合流してさっさと帰れ。足手まといだ」

 

 なんだろう・・・・・・・・・足手まといと言われても、ちっとも悔しくない。テロ工作の片棒などこっちから願い下げだからだろうな。溜息も出なくなった頃、エレベーターは一階フロアへ付き、霊児さんとマジョ子さんは堂々と待ち受けのイスに座る。

 

「オレらここで磯部綾子ちゃんが戻ってくるまでいるよ」

 

 どうして? と、言う前にマジョ子さんは言う。

 

「目的を果してないからな。きっとレクター博士みたいな拘束具でこの病院に運び込まれる。折角来て無駄足か、無駄足じゃないのかも解らないのは気に入らない。情報の一つでも仕入れてから帰らないと、ガキの使いだしな」

 

 もう付いていけないよ・・・・・・・・・。

 おれは二人の指示に従い、病院から出るとタクシー乗り場に横付けする馬鹿でかいリムジンのドアが開いた。スカーフェイスの女性がおれを見ると手招きした。

 促されるまま、怪訝に思うだけの思考力は既に一日分使い切ったおれはリムジンに乗り込んだ。

 

「指揮官から聞いている。私はジュディーだ。よろしくな?」

 

 タバコの似合う女性だけど、おれは突っ込まないぞ。突っ込んでやらないモンね! メイド服がメチャクチャ似合ってねぇ! 何て、売れない芸人みたく叫ばないぞ! オイシいとも思わないぞ! 誘惑すんな!

 

「まぁ〜そう硬くなるなよ? リムジンに乗った犯罪者なんて、ポリ公の乏しい想像力で思いつかないさ〜?」

 

 もう――――――――どうでも良いよ。そんな事。家に着いたら不貞寝する。もう、何処も行きたくない・・・・・・・・・・・・。けど、帰ったら父ちゃんの墓参りだしな・・・・・・・・・はぁ〜憂鬱だ。

 

 

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